Щурците (シュトゥルツィーテ)
さて、ФСБに続き、ブルガリアン・ロック・レジェンドについて書こうと思います。やっぱりФСБの次はЩурцитеでしょうか?
Щурците (シュトゥルツィーテ/Shturtsite、バルカントンからリリースされたCDにはバンド名を英訳してThe Cricketsとなっていました)ですが、実は現地ではFSBよりも人気があります。FSBよりも庶民的で、その音楽性が分かり易いからかもしれません。
Щурцитеは1967年ソフィアで結成されます。ブルガリア独自のロックバンドを結成するというアイデアのもと、バンド「バンダラツィテ」のキリル・マリチコフ(B,Vo,Kb)とペータル・ツァンコフ(Dr)、そこにバンド「スランチェヴィテ・ブラテャ」のペータル・ギュゼレフ(G,Vo)とヴェセリン・キスョフ(G)が集結します。同年12月8日(ブルガリアでは学生の日)、国立学芸大学のパーティーで初めてバンドとして演奏します。同年、The Shadowsのカバーをレコーディング。
バンド名がまだなかった彼らはブルガリア国営ラジオでバンド名を募集、この4人の若いミュージシャンは多数の応募の中からЩурцитеを選定・決定します。そもそも、このバンド名は彼らの母親たちが提案したもので、コンサート主催者は、当初このバンド名の使用を認めませんでした。それは、当時のブルガリアではビートルズをカブトムシと誤訳していたため、バンド名がЩурците(コオロギ)ではその命名方法がビートルズに似ているとされたことが原因だったようです。
1967年、バンドはゲオルギ・ミンチェフ(ブルガリアのロックシンガー)と共に「Bяла тишина(白い静寂)」をリリース、ゴールデン・オルフェウス・フェスティバルで優勝、当時唯一であったテレビ・コンクールで「メロディ・オブ・ザ・イヤー」を受賞します。
続く1968年にはファーストEP(4曲収録)をリリース。1969年にはセカンドEP(4曲収録)をリリース。サウンドはビートルズ風ロックンロール(?)、日本で言うグループサウンズでしょうか?
収録曲
Звън(ベル)
Малкият светъл прозорец(小さな明るい窓)
Веселина(ヴェセリーナ)
Изпращане(見送り)
収録曲
Песен за Щурците(シュトゥルツィーテの歌)
И една звезда(それと星ひとつ)
Стар албум(古いアルバム)
С китара по света(ギターと世界を周る)
1969年にヴェセリン・キスョフに変わり、コンスタンティン・アタナソフ(G)が加入。 1971年までバンドは活動を続けますが、1971年に当時の共産政権がバンドの活動を禁止します。ペータル・ギュゼレフは「外国で出稼ぎをして苦労して楽器を購入したのに、帰国の際にはその楽器に高い関税を掛けられた」と話していたことを思い出します。年代も少しずれていますが、FSBとは違い、政府の彼らへの待遇は厳しかったようです。しかしながら、1972年にはThe Best Of The Beat Groups Of Sofiaというタイトルのコンピュレーション・アルバムに5曲を提供しています。そして、1973年に入ると、バンドは2枚の4曲入りEP(1枚は映画のサントラ?)をリリースします。
全12曲中5曲収録
И Една Звезда(それと星ひとつ)
С Китара По Света(ギターと世界を周る)
Стар Албум(古いアルバム)
Двете Битничета(二つの小さな存在)
Песен За Щурците(シュトゥルツィーテの歌)
収録曲
Ще срещнем нашата мечта(僕らの夢に会えるさ)
Две момчета(ふたりの男の子)
Виолета(ヴィオレッタ)
Капитан(キャプテン)
収録曲
Пеликани върху сал(いかだに乗ったペリカン)
Аз съм човек(僕は人間だ)
Ние стопаните(僕ら、主人たち)
Песничка за модата(ファッションの小さな歌)
1973年、ペタール・ツァンコフに代わりアタナス・アタナソフ(Dr)が加入。しかし、1974年には、アタナス・アタナソフに代わりゲオルギ・マルコフ(D)が、コンスタンティン・アタナソフに代わりボリスラフ・パノフ(Kb,Vo)が加入、1975年にシングルを2枚リリースします。このあたりから、サウンドに少しプログレ・フレーバーが表れてきます。
収録曲
Песен за атомната гъба(核キノコの歌)
Училище за малки и големи(子供と大人の学校)
そして、1976年、やっとファーストアルバムがリリースされます。この年、ボリスラフ・パノフに代わり、ヴラディミール・トテフ(Kb,G,Vo)が加入、また、コンスタンティン・アタナソフ(G)が一時的に再加入しますが、同年脱退、ここでバンドメンバーの流動が止まります。そして、1978年にはセカンド・アルバムがリリース。トテフがボーカルを務めるこのセカンド・アルバムの一曲目から、彼の影響が表れたようで、プログレ色が強くなります。ご覧の通り、ここではバンド名のローマ字綴りがShtourtsiteとなっています。
1980年にはアルバムXX ВЕК(20世紀)をリリース、プログレ・フレーバーを残しながらも、ポップ色を強めます。このアルバムからは、タイトル曲のXX век(20世紀)、Сватбен ден(結婚式の日)、 Две следи(二つの跡)のヒットが生まれます。1982年にはLP2枚組のВКУСЪТ НА ВРЕМЕТО(時のテイスト)をリリース。このアルバムからも、タイトル曲をはじめ、数曲ヒット曲が生まれます。
こちらの曲はДве следи(二つの跡)です。ポップですね。この曲は、2000年にD-2というバンドがカバーして、再度ヒットしています。
Вкусът на времето(時のテイスト)
1985年には、ロック色の強いアルバムКОННИКЪТ(騎士)をリリース、続いて1987年には、少々アダルトなムードを増したアルバムМУСКЕТАРСКИ МАРШ(マスケット銃士のマーチ)をリリース。
代表的なバラード、1987年のアルバムМУСКЕТАРСКИ МАРШ(マスケット銃士のマーチ)からНавечерие(イヴ)をトテフがピアノ弾語りで演奏しています。
1987年にはバンド結成20周年を記念して全国ツアーを行います。この時の模様はLP3枚組のライブ・アルバム20 ГОДИНИ ПО-КЪСНО(20年後)に収録されます。
1990年には事実上、最後のシングルとなるАз съм просто човек(私はただの人間だ)を発表、この歌は1990年代のブルガリア民主化のアンセムとなります。
また、同年、The Cricketsというタイトルの13曲を収録したコンピュレーションCDをリリース。
その後、暫くの間、主だったバンド活動はなく(私の思うに、社会主義崩壊から民主主義への転換期で、西欧などにミュージシャンとして出稼ぎにいっていたのではないかと思います)、1996年にようやくペータル・ギュゼレフが設立したレーベルGMPから、ファースト・アルバムとセカンド・アルバムを除いた全アルバムのCD化に加え、ベスト盤的なCDが4タイトル1968-1980 I,1968-1980 II,Best Ballads I,Best Ballads IIがリリースされます。また、バラード集1には、新曲Клетваが収録されています。ファーストとセカンドがCD化されない確かな理由は訊けませんでしたが、生前ペータル・ギュゼレフ氏は、「社会主義時代はアルバム毎に共産党員が作詞した曲を2-3曲収録しなくてはならなかった」と言ってました。
1997年、バンドは本格的に活動を再開、全国ツアーを開催、その模様から10曲に新曲6曲を収録したアルバム30 ГОДИНИ ЩУРЦИТЕ(30年シュトゥルツィーテ)をCDでリリース。
その後、バンドの中心であるキリル・マリチコフがソロ活動などをしていたせいもあるのか、バンドは沈黙します。2004年、バンドの集大成としてАНТОЛОГИЯ(アンソロジー)をCD4枚でリリース、同時に大規模なコンサートも開催されます。このライブの模様は2年後の2006年になってやっとDVDとしてリリースされます。
2007年、バンドは全曲新曲のアルバムНА ПРАГА НА СЪРЦЕТО(心の瀬戸際で)のレコーディングを開始、1987年リリースМУСКЕТАРСКИ МАРШ(マスケット銃士のマーチ)以来の新作アルバムは2008年にリリースされます。また、同年、コンサート活動開始から40周年を記念して、大規模なコンサートも開催します。
その後、バンドはコンサート活動を続けていたのですが、ペータル・ギュゼレフに脳腫瘍が見つかります。2011年、バンドは結成45周年を記念する、オーケストラを導入した大規模なファイナル・コンサート・ツアーとアコースティック・バージョンの楽曲を収録するアルバムを計画していましたが、ギュゼレフの容態はよくならず、実現にはいたりませんでした。そして、残念ながら、2013年4月25日、ギュゼレフが戻らぬ人となり、バンドはその活動に終止符を打つことになりました。
さて、当店では、Щурцитеの楽曲を流したり、時にはビデオも流しておりますので、ご興味ある方は是非ご来店くださいませ!また、リクエストにも出来る限りお応えいたしますので、お気軽にお声掛けください!
あなたもオルフィック・バーで、ブルガリアンロックを聴きながら、ブルガリア料理とブルガリアのワインやラキヤ(伝統的な蒸留酒)をお楽しみになってはいかがでしょうか?
はじめまして、Chturciteの記事と聞いて訪れました。Chturciteは、デビューした年にジフコフが西側の影響を排除する政策を強化したのもあって、政治状況に翻弄されたグループですよね。 結果的にとは言え、圧力をやわらげてくれたのが、ジフコフの娘のリュドミラだったというのも皮肉な話です。 彼らが1st・2nd(あと確か4thも)公式にリイシューしなかったのは、強制的に押し付けられた曲があったからだとどこかで読みました。 個人的にはラジオレコーディングがある程度残っているので、それをまとめてリリースして欲しいなと願っています。 Sreburnite Grivni
など、他のブルガリアのグループのことも是非書いてください。
初めまして、お詳しいですね。1st・2ndのCD化がされなかったのは、1-2曲そのような強制された曲があったからとペータル・ギュゼレフ氏には聞いております。4thはCD化されましたが、収録曲が削られていますね。音源を管理していたのが、ペータル・ギュゼレフ氏だったので、彼が亡くなってしまったこと、バルカントンもそうですが、ラジオ局あるいはテレビ局に残っている音源や映像はライセンス料が高いので、現在、ブルガリアのCD販売数は非常に少ないことを考えるとCD化は難しいのではと思います。
お返事ありがとうございます。 日本語の情報がほとんどないので、本国のサイトを訳したりして何とかって感じです。 そうでした、4thは曲を削られていたのでした。 ライセンスのことはブルガリアのコレクターも言っていました。
あと、「わが国は貧乏だからね・・・」とも言っていました。 いずれにしても、東欧ものは集めるのが大変です(笑